5月20日(土)中北支部では倫理セミナー「地域の暮らしと環境の移り変わり」をテーマに北中城村社会福祉センターで開催しました。講話者に『熱田区字誌』の編集に携わっている前北中城村熱田区老人会長の喜納宏さんをお迎えし、熱田区民の証言や写真等を基にした沖縄戦終了後から日本復帰までの約30年間の世替わり・生活史を拝聴致しました。未会員3名含む21名の参加者は足元の身近な生活史を興味深く聞き入っていました。
講話内容を大まかにまとめると次のようになります。
熱田区の戦争色が身近となったのは、1945年4月1日、北谷の米軍上陸からである。5月7日は隣字の久場崎に突貫工事で浮桟橋造成され食糧搬入が始まった。その後、約3か月凄惨な沖縄の地上戦が続きやっと終戦を迎えた。
浮桟橋は戦後、18万人の引揚者(帰還者)の上陸に利用され、その後熱田区の青年団事業として熱田劇場200坪の見物席としても再利用された。そこで催される綱引きや芝居等は区民の潤となっていた。久場崎近くには米国人生徒400人在籍する「久場崎ハイスクール」が設立された。
1946年5月20日中城村から分村し北中城村誕生。7月、熱田区は2か所に分かれて、軍払い下げテントを利用した家で2年間生活する。その間、部落内の屋敷と道路整備基準が決まり、区画された敷地に移り現在に至る。
1952年4月28日「サンフランシスコ平和条約」発効。沖縄は日本から切り離され、アメリカの施政権下に置かれた。幹線道路名も変更され群道から軍道13号線となり、復帰後は国道329号線となった。その頃、配給所が指定され沖縄食糧から米の配給(加州ローズ、タイ米等)が始まった。熱田区にはコンセット屋1棟に1・2年生、各1クラスの分教場が設置された。
1955年頃には湯風呂屋、ダンパチ屋、トーフ屋、サシミ屋、マチヤグァー15店 村内一の人口であった。
換金作物のサトウキビは村全体の40%を熱田区民が生産し、親戚隣人結マールでの収穫時期には山羊汁で労を労った。
講話後の座談では未会員の方からも質問や感想があり、関心の広がりを実感しました。「昔懐かし昭和のお話が聴けて、先輩、先祖の苦労を乗り越え築き上げたからこそ、今の生活があることを若い世代にも伝えたい。」参加者から寄せられた感想です。
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